院長の信条と
アメリカ研修時代の話

私(藤井 康一院長)の信条について

藤井 康一

先代の院長、藤井勇が1954年に開業以来、当院は、大切な動物たちの健やかで安定した生活を確保するため、最先端の医療を目指してきました。初代院長の獣医療に対する探究心は1960年代当時としては大変珍しかった海外研修を行ったことにあります。獣医療先進国のアメリカ、ニューヨーク市のアニマルメディカルセンターでの海外研修で学んだ知識をもとに、後のフィラリアの感染症の病態の一つであります「後大静脈塞栓症の発見」と手術手技の発明である「頸静脈吊り出し方」を考案し、今では世界標準の手術になっております。

この海外研修はその後も続けられ、現在も当院の獣医師と動物看護師に引き継がれております。同時にその研修から得られた知識や毎日の診療の経験から毎年の学会発表を繰り返し、これまでに100近くの学会発表を行ってきました。2013年には犬の膝の手術が、獣医界で最も権威のあるアメリカの外科専門医の雑誌に掲載され新たな手術方法の開発が認められました。

これらは個人が勉強をするだけでは成し得るものではなく、60年という長い歴史によって培われ、生み出されてきた技術、かつ最先端の技術です。現在、知識は簡単に手に入れることができる時代ですが、技術は受け継がれ、さらに進化され、日々の鍛錬によってしか得ることができないものです。それは、ただ長く仕事をしているからといって、得ることができるものではありません。獣医師、動物看護師が日頃、当院独自の技術を習得し、さらに最先端の学術を得て経験し実践し続けてこそ初めて成り立つものなのです。

当院は既に100名以上の研修医が勉強をして開業していきました。ただ、過去に当院で勉強した先生方と、今の先生方では、学ぶことが違います。たった5年前,10年前でもその差があります。当院の信念は変わらずとも、技術やノウハウには大きな差があるのです。60年間、培った歴史・技術を生かすには、その歴史に甘んじず、常に進歩し続けないといけません。

進歩し続けると言うことは、日々自らが進化していくことです。仮にそれが当院にとって不利益な事であっても、進化のために我々は歩みを止めることなく、挑戦し続けます。それはやってみないと次のステージに進めないからです。

この進化は医療技術や設備だけではありません。当院が考える進化とは、訪れる飼い主様、そしてその動物たちの快適で癒しに満ちた生活を守るために、同時により良い獣医界になるために、そこで働く獣医師、動物看護師、そして受付や事務職に至るまで、働きやすい環境と生活を提供し続けることです。今までもそれを意識し実行してきましたし、これからもさらに進歩、進化できるよう努めて参る所存です。どうかよろしくお願いいたします。

アメリカ研修時代の話

アメリカ留学に否定的だったのに、留学した理由

私の父、藤井勇は日本獣医界では知らない人がいないほど有名でした。今でも父の世代の獣医師に会うと父の話が出てきます。そんな動物病院の2代目の獣医師でした。それも4人兄弟の4人目、家族でたった一人獣医になったのです。兄弟の中で獣医師に小さい頃からなりたいと思っていたのは私だけで、他の兄弟は獣医大学すら受験しませんでした。

父がこの業界で有名になったのは、沢山の学会活動があったからです。特に当時死の病であった、フィラリア症の病態の一つ後大静脈塞栓症という病態を発見したことと、その手術方法である頸静脈からの虫体の吊り出し方の手術の開発で当時は画期的な発表でした。

この手術はその後世界中に広まりました。しかしながら、その業績の中に父の名前はなかったのです。1970年代に父がこのフィラリア症の大発見をした時に、それを聞きつけてアメリカから外科医が来て、その時に父はそれまで日本で発表していた資料をすべて渡しました。そのアメリカの外科医はその業績を自分のものとしてアメリカの学会誌に発表しました。そこには父の名前はありませんでした。

おそらく父は悔しい思いだったはずです。ただ、治療法が世界中に広まったことで、この恐ろしい病気から多くの犬を助けることができたことで満足だったと思います。同時に父は私がアメリカに行って、英語で外国の獣医師と渡り合える英語力、学力を付けてもらいたいと感じていたようでした。そして学会や論文発表できる人間になってもらいたいと感じていたために、私にアメリカに行くようにと勧めていました。

私個人はどっかのお金持ちがアメリカに留学して箔をつけて帰ってくるようなものだと初めは感じていて、行くのが嫌でした。嫌といっても、行ったことのない土地で数年間暮らすことには興味を持っていましたが・・・

当時は海外に1年程度行っていた獣医師がまるで大家のようにセミナーを行っていました。そのことについて、私はかなり否定的でした。また、日本の工業技術は世界一と言われていた時代に、日本の医療技術がそんなに劣るはずはないと感じていました。そこで日本の技術が劣ることはないことを証明するために日本で3年間の研修医を追えた後にアメリカペンシルバニアにある、ペンシルバニア大学の獣医学校に留学することにしたのです。

自信のあった触診で鼻を折られた

アメリカに行ってみると、当然英語はちんぷんかんぷんでしたが、授業には出させてもらいました。当時、通常日本から来ている獣医師の留学生は見学だけして1年ほど過ごして、帰って行きました。私の留学中にもそういう人が数人いました。

私の留学していたペンシルバニア大学は名門校の一つでアイビーリーグの学校であったために、あまり見学生を学校で受け入れてくれませんでした。当時のパターンとしては、英語学校に席を置いて、見学をするというだけの物で、勉強をするとは、ほど遠く感じました。私は腰を据えて学ばないと日本の良さをわからないと感じて、ペンシルバニア大学の獣医学校の学生に成れるように努力をしました。学部長と交渉をして、獣医学部の試験を受けさせてもらい学力が十分なら入学を認めてもらう事になり、そのかいあってか、念願が叶い晴れて獣医学校の学生になることができました。

ただ、その大学で感じたことは、日本の学生との大きな違いでした。それは、学生の勉強に対する姿勢です。大学を出て3年働いた私と彼らの年齢はほぼ同じでしたし、勉学に対してはとてもまじめでした。私は日本で既に臨床を3年間やっていたので、それなりの自信がありましたし、現実にはいろいろなところで、学生たちよりは技術的にも持っていました。それでも、その学生の真摯な学ぶ姿に刺激を受けずにはいられませんでした。学生は朝6時には学校に来ています。そして終った後、図書館に夜中の12時ぐらいまでいて学習していました。英語もままならない私は、最初の2年間で10キロ近く痩せました。

獣医学校の大学生になって、半年ぐらいして大学病院に出ることになったある日のこと、スタンダードプードルの症例が来院して、私が担当になりました。その犬は雄犬で、数ヶ月前から痩せてきたということで、大学病院に回ってきた症例だったのです。一学生としての担当ではありましたが、日本で既に3年間臨床をやっていましたし、学生にはもちろんの事、勉強ばかりやっている先生にも触診などでは負けたくないと思っていたくらいです。私は日本で、毎日80症例以上の診察をしていました。アメリカの先生はせいぜい1日に5〜10例ぐらいです。いくら私が若く経験が浅いといっても、触診の力はあると思っていました。

その症例の担当はDr.Littman 女性の40代後半の先生でした。私は「こんなおばさん先生に何がわかるのだろう」ぐらいに感じていました。今、思えば、大変生意気な学生だったと思います。

私は、問診、触診、聴診をひと通り行い、大きな異常は最近痩せてきたという事だけで、血液検査、尿検査、胸部腹部のレントゲン検査、腹部超音波検査を提案して、Dr.Littmanに診察を依頼しました。しかし彼女は触診で、お腹の中のしこりを見つけ出しました。後腹膜腔という特殊な触りにくい場所にあるしこりでしたが、私は触診にはかなりの自信を持っていたので、大変ショックでした。自分の触診の甘さに何とも恥ずかしくそして悔しい思いをしました。これがきっかけで、この大学病院で1番の触診ができる人間になろうと決心したのです。

また、当時大学病院で最も尊敬されていた先生の中に、Dr.Washabawという、後に米国内科学会長になった先生がまだ30代で教鞭をとられていて、その先生が「問診、触診、聴診で診断の70%以上が決まると」学生に説いていました。それがいかに重要なことか、それを学んで帰ることが私の留学の最大の目標になりました。

診断プロセスにこだわり続けてきた

私は、日本で、外科の研究室に所属していました。外科はある意味花形の職業であるために、今でも人気の科です。日本の医療のテレビ番組でも、殆どは外科の番組ばかりですよね。しかしながら、アメリカのティーチングホスピタルといえども私にやらせてくれる外科は避妊、去勢手術程度で、他は見学になってしまいます。

また何よりも、触診の大切さに気付いたことがきっかけで、留学中、3年間はすべて内科に費やそうと決めました。内科と言っても、一般内科、皮膚科、内分泌科、循環器科、放射線科、脳神経科、小児科、腫瘍科をすべてを学ぶ決意でした。一般学生は大動物と小動物そして外科、内科と1年の三分の一程度が内科でしたが、私は1年間すべてを内科に居て、さらにもう1年一般内科だけで過ごしました。この経験は私にとって、診断のプロセス、誤診を極力減らす方法を身につけました。

実は、外科には診断というプロセスはないのです。基本的に内科で診断した症例を外科が切るという形なのです。私はこの留学中、内科に専念することで、病気が何であるかが分からなければ、何も始まらないということに、ここで気付くことができました。これが後に自分の臨床家としての人生を支えてくれる物になったのです。なぜなら今までの私の父の時代は病院では経験主義で、臨床経験がない人は病気を見落とし、経験と勘の良い人は名医になっているからでした。

私は決して勘の悪い方でも不器用な方でもないですが、スタッフ全員が同じ技量になるにはしっかりとした診断力を付ける事が大切であると考えています。獣医師によって誤診をしているような病院になっては困りますから。

しかしながら、当時学んだこのアメリカ式の診断プロセスを実施している病院は今現在でも殆ど日本にはありません。それは日本の教育機関では教えていないからです。

仮に紹介はしているところはあったとしても、1年間を通して教育しないために実用化されないのが現実です。言い換えれば身につかない程度に教えているのです。あまり面白くないプロセスを身につけるのは大変な努力が要りますが、これを身につけた後は、考え方を学ぶため、一生ものになります。

幸い私は診断プロセスに興味を持ってアメリカでの3年間の臨床生活を送ってきました。日本に帰国してから、20年間、そこで学んだ触診を基本に置いた確かな診断、そして、その診断をもとに治療をすすめてきました。

そして今、この診断プロセスを理解し、触診、診断、治療できる確かな技量を持った獣医師を育てたいと考えました。ただ、それを習得するためには最低でも1症例に1日費やす努力が必要です。それを毎日続けたとしても、2年の年月は必要です。

そのプロセスは、SOAPと呼ばれています。これは問題指向(型)医療記録、(POMR: Problem Oriented Medical Record又はPOS: Problem Oriented System)の思考プロセスです。ビジネス書などで言うところの問題発見思考やロジカルシンキングと言ったところですが、考え方ですから、その知識を増やせば、一見できる様になった気にはなりますが、時間をかけ一つひとつの症例からその考え方を経験しなければ、本当の習得にならず、さらに実際の診断、治療に生かすことなどできません。治療現場は一つひとつが違ったものです。単なる知識の習得だけでは、その応用が効かないのです。

SOAPは獣医師にとっての一生の武器になる

日本でも、獣医学の教科書にはSOAPのことが掲載されています。

ただ、そこに書かれているSOAPは、私が留学時に経験し、帰国後20年かけて習得してきたものとは全く違うものだと断言できます。仮に日本の教科書に書かれているSOAPを何十年もかけて経験を積み上げても、それは形式だけ繰り返したことになり、真にSOAPを習得したことにはならないのです。

経験だけでは大きな進歩や真の問題解決に至らないことは、日常の生活でもあります。例えば携帯電話。つい数年前までは、携帯電話といえば折りたたみの普通の電話でした。メールでのやりとりや、ケータイ小説など一部のコンテンツは観れましたが、やはり移動式携帯電話の領域を超えることはできませんでした。それでも、それまでは、日本は携帯電話先進国だったのです。

そんな時代に彗星のごとく現れたのがスマートフォンです。それは移動式携帯電話の領域を大きく超え、生活に密着しながら、日常生活の問題点を解決していく(アプリなど)、生活から手放せないものになっていきました。日本はこのイノベーションの蚊帳の外でした。なぜなら、成功したケータイ電話の考え方で経験を積み上げていただけだったからです。後にケータイ電話は、ガラケーと呼ばれるようになりました。ガラケー=ガラパゴス携帯、つまり日本でしか通用しても、世界には通用しない、いつのまにか日本はこの世界で孤島になっていたのです。

先に話をしたSOAPには同じことが言えます。日本のガラケーもスマートフォンも大きく括れば同じ携帯電話と捉えることができます。でも、それは全く似て非なるものであることは、周知の事実です。日本で従来語られているSOAPはガラパゴスなのです。その経験を積んでもガラパゴスのまま。本当に動物や飼い主様のためになるものではありません。私が、米国留学時に経験をし、考え日本で実践してきたことは、まさにここで言うスマートフォンの世界です。同じSOAPと言っても、そこに至る考え方、プロセスが違うのです。

つまり、日本の獣医学において、培われた経験、教育、先入観などから形成される思考様式、価値観、そのものを変えていかないといけないのです。SOAPにおいても、その本質は何か、一体それが意味する所は何なのか?

私がSOAPを通じて考えることは、それが動物や飼い主様において有効な思考方法であり、真のSOAPの思考、プロセスこそが、正しい治療を導いているということです。私が考えるSOAPは教科書やセミナーで覚えるものではありません。またそれを何年も覚えたからといって習得できるものではありません。動物に関する問題を経験則ではなく、常に変化する現場に応じ、アップデートし(スマートフォン同様)対応できる思考であり技術であり、能力です。私が言っている、経験主義ではない、問題指向型のSOAPとはまさにこのことなのです。

私が留学で経験したように、触診の大切さを感じ取り、そのベースにあるこのSOAPの思考を経験、習得することは、獣医師として一生をかけた技術になることを私は身を持って経験しましたし、それを継承、発展させることが獣医師のため、飼い主様が愛する全ての動物のためと感じています。

衝撃的だった「臨床」の姿勢

アメリカにいって驚いたことは多くありましたが、その中でも驚いたことの一つが、「臨床」という言葉を初めて理解したということでした。少なくとも日本では、当時こういう光景を見たことがありません。ここで私は、本当の臨床医を実感したのです。

アメリカの獣医大学の学生は、既に4年制の大学を卒業してから入ってきている人が多いので、1年生の平均年齢は26歳ぐらいでした。中には、結婚をしている人や、子供のいる人も、また、授業料も自ら捻出している人が多くいました。それは本当に自分でやりたいことを見つけているために、それに費やす時間と真剣さの度合いが、私たち日本の獣医大学の学生とは全く違って感じられました。

朝6時には入院室に学生がいて、犬たちの横に座り、体温や聴診などして、身体一般検査をしている。それも、鼻の先から尻尾の先まで。始めは凄く驚きました。なぜなら彼らは、犬舎のなか、に入り込み、犬と一緒の位置、地べたに座って、身体一般検査を実施していたからです。まさに床に臨む(のぞむ)。これこそが、臨床という言葉が一番適切かも知れないと感じたくらいです。この姿勢も日本にはないもので衝撃的でした。

犬や猫を自分と同レベルにして、会話をしているように、毎朝6時から学生が診察している。先生が来る8時までが彼らの実力を試すチャンスであり、そこで新に見つけた病変や状態の差を8時に意見として担当のドクターに話し、自分の治療方針を話す。この真剣勝負の臨床の学びを目の当たりにして、本当の臨床医になるためには、ここを超えないときっと表面だけの獣医師になってしまう。これをマスターするまでは日本には帰らないと決意した瞬間でもありました。

獣医療者は人格者でなければならない

藤井 康一

アメリカに来て、一番感じたのは「獣医師になることは本当に大変なのだ」と言うことでした。日本は確かに獣医大学に入学するのは大変ですが、アメリカほど切羽詰まった形で勉強しなくても国家試験は通ります。こんな事言ったら、申し訳ないですが、レベル的には20年ぐらい遅れていると言っても過言ではないでしょう。

今や情報はいくらでも入ってくるから、知識的には遅れてないと感じるかもしれません。しかし動物に対する考え方、自然環境に対する考え方、様々な意味で日本人は遅れていると感じます。

例えば、私が留学していた当時クラスメイトが140名ぐらいいて、そのうち5人しか喫煙者がいなく、そのうちの一人が私でした。ある日の昼休みに、クラスメイトと外でランチを食べていて、食後にタバコを吸おうと思い、友達に「タバコ吸っても構わないか?」と質問しました。すると彼は私に、「勿論、構わないよ。だけど、君はもう少し賢い人かと思ったよ。」と言われました。私は腹も立てましたが、何よりもすぐに止められない自分に腹が立っていたのです。喫煙者は自分の健康を気にして止めるのだと当時は思っていましたが、本当は、周りの人間に対する思いやりや配慮などが無い人はタバコを吸う、それが周りの評価で私自身もそう理解することができました。

とはいえ、すぐに止めることはできず・・・数年後、日本に帰ってようやくタバコを止める事ができました。そしてそれ以降は、友人で煙草を吸っている人がいると、「タバコ吸うんだ。もう少し賢い人かと思っていたよ。」と言うことにしています。これを言って今までに止めてくれた人が二人います。きっと彼らも周りを見る事が出来る人間になってきたのだと思います。

現在の日本では喫煙者はまだまだ多いです。私が病院の前の道を朝掃除をすると、ゴミが10個あるうちの9個はタバコの吸い殻です。これだけタバコを吸う人はマナーもなっていないのです。そしてそれに気付いていないということです。しかしながら救いとしては昔より若者が、身体に悪いことをせずに人に迷惑をかけないというスタンスになってきている様に思います。タバコをすわない若者が増えてきたからです。これは日本も先進国の仲間入りをしてきた証拠でもあります。

まず、人となりがしっかりしないと獣医師としての人格も出来ないという事を理解した留学時代でもありました。